媚びないこと

佐野洋子のエッセイは小気味が良い。書店で手に取り、版画作家という紹介をちらりと見て、山本容子と完全に間違えて買ったものだけれど。
媚びない人ということでは金井美恵子のエッセイなども大好きだが、佐野洋子の媚びのなさというのは世間を敵に回してやせ我慢をしているとか勘違いをして独りで悦に入っているというのではなくて、自分が信じたことを素直にやってきたら他の人とは少し違っていた、というようなとても自然な生き方。文章がとてつもなく巧いわけでもないのに、心に直球でズバズバ入ってくる。佐野洋子の前にしばらく向田邦子のエッセイを読みつないでいたが、向田邦子は巧みだ。緻密な話の展開に計算しつくした「意外な」結末。さすがに、連続ドラマのヒットを何本も作った人であると、首肯するが、佐野洋子の素直でそれでいて体の芯を揺さぶるような文章を読んでいると対照的に向田邦子は鼻につく。「わたし、上手でしょう」というしたり顔が見えてしまう。それは媚びだ。

わたし、今のままでいいのだろうか。どこかでスイッチを切り替えねばならないのじゃないか。まだ瑞々しい20代前半だったころ、森茉莉の死にかた、つまり、新聞に「孤高の死」と書かれるような死に方に憧れた。自分も独りで死んで行くのだ、とそのころから思っていた。結局独り身で、まあ猫と同居しているにしろ、あの頃思っていた姿に日に日に近づいている、着実に。その、独りで死ぬときに、私の人生が誇れるものであったと思えるのか。誇るといっても他に対してではなく、自分に対してである。「私は他人に媚びずに、でも幸せに生きた」そう言って死にたい。佐野洋子は随分といい位置にいるなあ、と思うのである。